Write to think

- ある題材について書くことは,それについて知る最良の手段である - (Gerald M. Weinberg)

神さまと人間

「小人閑居して不善を為し、至らざる所なし。」

(つまらない凡人は、一人で人目につかぬ所にいると、悪事を働いてどんなことでもやってのける。)

 

これは中国の古典、四書の一つ『大学』に出てくる一文だ。これは結構な性悪説に立っているわけだが、しかし程度の差はあれやはり人間というのはあまり一人でいると優れた行為をし続けるというのは極めて困難だと思う。これに対して「君子は必ず内なる己自身(意念)を慎んで修めるのである。」と続き、だから慎んで徳を積みなさいと説かれるのである。

 

さて、四書の中でも『孟子』は性善説に依っているようだが、ここでは性悪説的な立場から、「神」について考えてみたい。

 

先に断わっておくが、僕は特に信仰している宗教があるわけではない。が、かといって神は存在しないとわざわざ主張する無神論者でもない。ただ、歴史を遡ってアラブ・ヨーロッパ地域、中華、インド、オセアニア、南・北アメリカ、また日本などが互いに交流のない時代に言語も生活環境も文化も全く違うにも関わらず、なぜかそれぞれの地域ごとに神という存在が認められていたという驚くべき事態について、考察してみようというだけだ。

 

 

さて一口に神と言っても、それは地域ごとに神話があって、その存在の性格はさまざまである。ただ、その中でおそらく共通しているだろうことは「神は超越者である」ということだろう。すなわち、人間の能力が全く及ばないような力を持っているのが神である。そして人はその神を「畏れ」たのである。

 

神に対する「畏れ」を抱くことによって人は「悪行」を慎み、「善行」に勤めた。人間を超越した存在である神を知ることによって、良心に反することはできなくなった。なぜなら神はすべて御見通しだからだ。

 

するとどうか?神によって善と悪を区別されると、それによって社会にルール、秩序が生まれるだろう。例えば旧約聖書では、モーセが石板に書かれた十戒を授かってきてイスラエルの民に律法が生まれている。この何らかの基盤となる秩序のおかげで、人間社会はそれ以前に比べてより良く治まったのだろう。

 

 

さて、「神」という存在と人間社会への影響について少し見てきたが、僕が重要だと思うのは、「神という存在を戴くことによって、人々が良心に従うようになり社会がよく治まった」のではないかということだ。その結果として子孫は繁栄し、社会は歴史を刻みながら発展してきたのではないだろうか。

 

要するに、社会の発展の直接的原因は、「人間が良心に従う」ということではないだろうか(”直接的”について突っ込みどころがあるのは承知)。大昔の人々にとっては、部族の民を良心に従わせ、悪行を慎ませるにはどうしたらよいか、ということが、その部族が子孫を残して生き残っていくための最重要課題だったのではないだろうか。そうして生まれた智恵が「神」だったのではないか。

 

 

こう考えてくると、僕には「神」という存在は、人類が進化の過程で備えてきた叡智、あるいは人間であることの特性のように思えてくる。鳥が空を飛ぶこと、チーターが速く走ること、イルカが両音波を使うことなどと同じように、人間は知恵を備え、神を持った。人間の生態に適していたということではないだろうか。

 

 

日本には神道があった。そこに儒教や仏教も吸収しながら、絶えず人間を超えた存在を畏れて生活してきた。しかし近代以降、自然科学の発展の結果としてかつて「畏れ」ていた自然現象の多くの原理が解明され、それに加え、神道および道徳教育廃止という戦後占領政策が決定打となり、「神」という非科学的な存在が軽視される世の中になってしまったように思う。

 

道徳や宗教に過剰に反応し忌避してしまうことは、「良心に従う」という感覚を麻痺させてしまう。このままでは、(僕を含めた)小人が閑居してそこかしこで不善を為すことに歯止めが利かなくなってしまうような気がしてならない。「神」を信じるかどうかは別として、「良心」を育むことは怠ってはならない。