Write to think

- ある題材について書くことは,それについて知る最良の手段である - (Gerald M. Weinberg)

「無知の知」歓迎!

「どこが分からないのか分からない」

 

中学や高校でよくありそうな嘆きだ。これは本人以上に、教員側の嘆きの原因であったような印象がある。生徒がこう言うのを聞いて、「それでは話にならないじゃないか」という教員もいたのではないか。

 

果たして、「どこが分からないのか分からない」のは、全然ダメなことなのだろうか?

 

紀元前400年前後のギリシャの哲人ソクラテスは、「無知の知」で有名だ。すなわち、ソクラテスは「自分が何も知らないのだということ」を知っていた(自覚していた)ため、ギリシャで最も賢人であると宣告された。ソクラテスはその宣告が信じられず、街に出て政治家や弁論家や職人など様々な人と議論をしてみることにしたのだが、その相手たちは皆「自分はその道のことは何でも知っている」と思っていたのだが、実際には何も分かっていなかったということが、ことごとく明らかになってしまった。

 

さて、この話に基づくとすると、本当には分かっていないにも関わらず何となく分かった気になっているよりも、分かっていないことに正直になれることの方が優れているようだ。

 

わが身を振り返ると、案の定思い当たる節が多々ある。例えば高校物理。高校当時はそれなりに勉強して分かった気になっていたのだが、本当は厳密にやると大学で扱う程度の数学が絶対的に必要となる。しかし高校ではそれができないため、数学を回避した怪しい表現で学ぶことになる。ここでなんの疑問も持たずそんなもんだと思って分かった気になっていたら、それは物理を分かったとは言えない。

 

こんな例はたくさんある。例えば、民主主義。これは今では当たり前で最適な政治体制だと理解されていると思うが、本来民主主義はそれほど最適と呼べる代物ではないようだ。第二次大戦後、かの有名なイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、「民主主義は最悪の政治体制であるが、現実的にはそうするより他にないから民主主義を採用しているのだ、ということを忘れてはいけない」と言ったそうだ。

これについては僕自身まだ検証していないので、チャーチルの発言が正しい、と信じ込むわけにはいかないのだが、「果たして民主主義は本当に望ましい政治体制なのだろうか?」あるいは「資本主義経済体制はどうか?」など、進んで疑問を持ち、それに対して自分がどこまで答えられるかを試してみることは非常に重要なことだと思う。

 

 

冒頭の問いに戻ろう。「どこが分からないのか分からない」状態の彼は、果たして全然ダメなのだろうか?

ここまでの例を踏まえてみると、彼は決してダメではない、と思う。それどころか、そういう状態にあってこそ知識の獲得および真の理解へとアクセスするチャンスがある、と主張する。なぜなら、自分が分かっていない、腑に落ちていないことに正直に向き合っているからである。

そんな彼が実際に真の理解に到達するためのステップは次のようなものだ。

 

①まずは、どこが分からないのか、と明確にすること。

自分が断片的にでも知っていること、理解していることと、何だかよく分からなくなってくるところの境界を見つけること。すなわち、「ここまでは分かるが、ここからが分からない」とはっきり言えること。

これは例えば、山に霧がかかっていて頂上が見えず漠然と不安を抱えた状態であったのが、一転してすっかり霧が晴れ、今何合目に来ていてここから頂上に至るための進路と距離の見通しが利くような状態になる。非常にすっきりするのだ。今いるところを自覚できれば、ここから自分がどの道をどれだけ登って行けばよいのか、すなわち何をどれだけ学んでいけばよいのかが見えてくる。

 

②次に彼がすべきことは、分からなくなった境界線で、どこが腑に落ちないのか、自分の理解の仕方と理解に苦しむところ、何が疑問なのかを追求することだ。すなわち自分の頭の中を人に説明できるように、自分で把握するということだ。

 

③ここまで来れば、彼は再度先生のところに出直して、自分の頭の中の理解の状態と疑問を伝えればよい。あるいはその疑問点に絞って本を探せばよい。何を聞きたいのかをはっきりと自覚していることは、教えられた時に非常によく記憶できるものだ。また、自分がなぜ理解できなかったのか、という原因まで分かりさえもする。

 

 

怠惰な僕には上のようなプロセスがとても面倒に思われてしまうのだが、しかしここを避けていてはいつまで経っても「知ってるつもり」の域を出ることができないだろう。

ソクラテスのような偉大な賢人とまで言わずとも、一応は大学という高等教育機関で学ぶものとして、あるいは国の一主権者として、自分の頭でものを考えて意見を持つ、というくらいにはならなければと思う。まずは日々のニュースあるいは勉強のなかで、積極的に疑問を持ってみる習慣を躾けていきたい。