Write to think

- ある題材について書くことは,それについて知る最良の手段である - (Gerald M. Weinberg)

科学コミュニケーションが成立するために

「科学コミュニケーション」という言葉がある。これは、「科学」という少し取っ付きにくい、専門性の高い内容に関して、それほど専門知識を持たない(であろう)一般の人との対話を指す言葉だ。

 

ある程度の専門性の高い内容についてコミュニケーションをするためには、発信側の伝える能力、正確にはその相手(受け手)に分かるように伝える能力が重要であるのは言うまでもない。しかし当然ながら、情報の受け手の理解する能力、あるいは理解するための予備知識というものが必要である。これを「F1」に関する僕の実体験を例に挙げて見てみよう。

 

 

僕は高校の頃にF1にハマった。今から6,7年前だと思うが、当時は佐藤琢磨やスーパー亜久里の活躍もあって日本でも徐々にF1人気が高まって来ていた。ある晩、フジテレビの23時台のスポーツ番組「スポルト」を見ていたとき、番組の終了とともにおもむろにF1中継が始まった。それまでは全くF1のことは知らず、興味を持ったことすらなかったのだが、見ていると佐藤琢磨(この人の名前だけは知っていた)が出ていたのでそのまま見ることにしてみた。

 

番組が始まるとテレビの向こうのサーキットでは何やらすごい熱気であるのが伝わってきた。さらにサーキットだけではなく、テレビの実況や解説者(たしかジャニーズのマッチこと近藤真彦)までもが異常にハイテンションである。何だかよくわからないまま、「へー、最高時速300キロも出るんだー」とか「ミハエル・シューマッハーなら聞いたことあるな」とか思いながら見ているうちに、何だかちょっと面白そうだぞ、と思い始めた。

 

しかし、F1をもっと楽しむために、ここで一つ乗り越えなければいけない壁にぶち当たった。それは、「解説が僕にとっては解説にはなっていなかった」ことだ。問題の解説とは、「この選手は次はソフトタイヤに切り替えるから云々」「この選手はおそらく1ピットで来ますね~」「今はマシンが軽くなっているので次のピットまでにできるだけ差を広げて云々」といったものだ。まるで外国語のようだった。結局F1中継を見始めて最初の1,2回は全然分からず終いであった。

 

何だか面白そう、とても気になる、だけど、どうも分からない。それでは悔しかったので、僕は思い切ってわずかな小遣いを使ってF1雑誌を買い、必要な知識を集めてみることにした。これがまた読んでみると面白い。そして迎えた次のレース(F1の用語ではグランプリ)、ワクワクしながら深夜のF1中継を見始めると、なんと解説がよく分かるではないか!それも、非常に面白い!解説が分かるとこれまでの3倍以上レースを楽しめてしまったのだった。

 

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さて、F1の話が随分と長くなってしまったが、この例から「科学コミュニケーションが成立するために必要なこと」、言い換えれば「専門性の高いコミュニケーションが成立するために必要なこと」についての僕の考えを述べてみたい。まず一つは、当然ながら伝える側が要所を押さえて分かりやすく伝えることだ。しかしこれだけでは十分ではない。もう一つの重要な点は、上のF1の例でも見たように、情報の受け手の予備知識や、その情報を理解しようとする姿勢、然るべき行動である。

 

原子力発電所で問題が起こったとき、「専門家がテレビで言っていることを聞いてもさっぱりわからない」、「だからどうしたらいいのか教えてくれ」、という声をしばしば聞いた。また大学では、「科学者のコミュニケ―ション能力」や「伝える力」という言葉をよく聞くようになった。これらは主に、専門家が一般の人にいかに分かりやすく伝えるか、ということに焦点が当てられている。これは最もなことだが、これだけでは片手落ちであるように思う。

 

もう一つの不可欠な点は、情報の受け手側にある。受け手側が必要な予備知識を自分で獲得するという努力を、自覚を持って積極的に行わなければならないのではないだろうか。高度な科学技術は科学者だけのものではなく、それらを利用した社会に生きる人々全員のものである。国民主権をわざわざ謳っている憲法を持つ国の国民(=主権者)である以上は、僕たちはその自覚を持って、必要な予備知識やリテラシー、教養というものを積極的に身に着ける不断の努力をしていく必要があるのではないだろうか。