Write to think

- ある題材について書くことは,それについて知る最良の手段である - (Gerald M. Weinberg)

Liberal Arts について

昨日は僕が所属する団体Xmajorの新プロジェクト「Liberal Arts Program」というものの最初のMTGがあった。このプロジェクトは、大学生が大学にいることの価値をより高める方法の一つとして、一般教養教育の授業を積極的に活用していこう!という趣旨のものだ。(参照 http://www.facebook.com/groups/381858585169815/

簡単に説明すると、4~5人ほどでチームをつくり、そのチームで①一つの授業に参加し、②復習を兼ねてMTGをし、③オフィスアワー等の時間を活用して教員を訪ね質問その他会話をする、という3ステップを毎回の授業ごとに行うというもの。積極的な参加、専攻も学年もバックグラウンドも異なるが共に自発的に学ぶ仲間、その分野では世の中でもトップレベル(のはず)の専門家(教員)とのディスカッション、授業というパブリックな場では語られない内容、背景、裏話、余談などなど、個人的にはこれはまさに京都大学の理念「対話を根幹とした自由な学風」を体現したものだとひそかに思っている。

昨日は実際にXmajorのメンバー以外の人も参加してMTGを行ったわけだが、15人ほどの学生たちが集まって真剣にシラバスをめくり、お互いにどういうことに関心があってどんなことを学んでみたいか、これはどうだ、ああだこうだと1時間以上議論した。僕はこの光景が本当にうれしかった。というのも、入学してから5年間、どの授業が楽か、単位がとりやすいか、出席は取られるのか、云々という会話ばかりで、「学ぶ意欲」から授業を選ぶ会話をほとんど聞いたことがなくウンザリしていたからだ。だから今日の光景を見て、「このプロジェクトがうまく機能し、今後もっと多くの学生に浸透してほしい、願わくば新しい大学生の文化になってほしい」とひとり思っていた。

 

さて、そろそろ本題の「Liberal Arts」について、いろいろと思索したことをつづってみたいと思う。ただし僕はまだまだ浅学で、由緒正しい"liberal arts"の意味を語れるわけではない。あくまで個人的な考察であることをあらかじめ断っておいて、本論に入ろう。さて、主となる問いは、「なぜliberal artsがあるのか?」だ。

 そこで、この"liberal"が何を意味しているのかを考えてみたい。まず、"liberal"は言うまでもなく「自由(な)」という訳が当てられている。しかしここで「自由な」と訳してからその意味を考えるのは適切ではない。なぜなら、日本社会、文化には元々「自由」という概念がなかったと考えられるからだ。これは、明治期に福沢諭吉が初めて"liberty"を「自由」と翻訳した時に「自由という言葉であるが、日本人には我儘(わがまま)と区別が難しいだろう」というようなことを語っているからだ。(出典は忘れてしまった。)そこで、"liberal"が西洋社会で何を意味したのかを考えてみる。

 

西洋における"liberal"は長い歴史を持っている。その語源がラテン語"liberalis"(suitable for a free man; 自由な人にふさわしい :OED)であることからも分かるが、古代ローマ帝国の時代からある(それもほとんど形を変えずに!)概念だと分かる。古いだけでなくさらに、ローマ帝国の歴史書(例えばリヴィウスの『ローマ帝国建国以来の歴史』)を読めば分かるようだが、自由を失うくらいなら死を選ぶ!というほど極めて重要な概念であったようだ。なぜそれほどに"liberty"が重要だったのか?

 

それに対する答えを考えるため、まず「自由(liberty)の反対は何か?」を考えてみよう。日本人に聞けば「不自由」とでも返ってきそうだが、「自由」が何かを考える段階で「不自由」という定義は何の意味もなさないのでこれはなしだ。"liberty"の逆が何を意味したのかは、その時代の世界観を描いた中で思考しなければならない。2000年も前の古代ローマでは、一人前のローマ市民は「自由人」と呼ばれていた。そしてそうでない人は何と呼ばれていたか。「奴隷」だ。したがって自由を失うことは、奴隷となることを意味していた。貴族および市民の娯楽のためにコロッセウムの中で猛獣と戦わせられる剣闘士(グラディエーター)のことを想像すれば分かるように、奴隷には生きる自由がなかった。彼らの所有者に生殺与奪の自由を握られていた。剣闘士は奴隷の一部に過ぎないが、奴隷がこのように全く人間としてみなされていなかったことがわかる。

これを踏まえて考えれば、「自由(liberty)がない」ということは自分が何を話すか、何をするか、さらには生きるか死ぬかということさえも自分の意志で決められないということだ、と言える。そして「自由であること(liberty, liberal)」とは、自分の意志で行動できることだと言うことができそうだ。さて、ここからやっと"liberal arts"に入っていこう。

 

"arts"は古い英語で「学問」を意味する。だからと言って"liberal arts"を「自由な学問」だ、なんて言うのは正しくないだろう。これは「自由人にふさわしい、あるいは自由人としての」学問と解釈するべきだ。では「自由人にふさわしい」こととは、それは自分で物事を考えて意思決定し行動できる、ということだ。さらにはOEDの"liberal"の意味を見れば、"willing to respect or accept behaviour or opinions different from one's own"ともあるように、「人それぞれ異なっていて良い」という文化が背景にあることが分かる。僕が重要だと思ったのはここだ。すなわち"liberal arts"とは、大衆や世間的な一般論、常識などにとらわれることなく自分で物事を考え、意思決定し、行動できる人の(になる)ための学問である、ということだ。

現代の世の中、本当に自分で物事を考え、意見を主張し、責任をもって実行できる人がどれだけいるのだろうか?僕たちはそういう人になっていかなければいけないと思う。文科省もどうやら教養課程重視の大学教育を再建しようとしているようだが、"liberal arts"が叫ばれているから"liberal arts"をやる、というのでは、全く意味がないように思われる。自由人として立つ自覚を持った人が学ぶからこそ"liberal arts"なのだ。

これからXmajorで"Liberal Arts Program"をやるに当たって、世間の「教養が大切」とか「アメリカの大学に倣ってリベラルアーツだ」なんていう論拠も意図もなにもない一般論に迎合して行うのではなく、あくまで「自ら積極的に主体的に学ぶ」ためのサポートプログラムであることを強調して締めくくることにしよう。

 

冒頭にも述べたが、あくまで僕個人の私見であり、「正論」ということではない。これから10年も20年も勉強を積み重ねて本質が見えるように努めていこうと思う。