Write to think

- ある題材について書くことは,それについて知る最良の手段である - (Gerald M. Weinberg)

読書録『人工知能に哲学を教えたら』(岡本裕一郎)

「もともと人工知能と人間では、作りが違っていて、人間との間に決定的な溝を作るのは、賢明とは言えません。

ここからわかるのは、問題を考えるとき、「0100か」という発想をしないことです。」

 

世の中一般に、0か100かというものはほとんどない。例えば薬か毒かというのも、分量の問題や、使用者との相性もある。絶対的に薬であるというのは、なかなか難しいだろう。

少し解像度を上げて考えてみると、「薬である」のはその物質自体が絶対的に決定するのではなく、その物質を服用したときに症状が改善した場合に「薬として作用した」とみなされるのだ。

すなわち、「薬である」とは、「ある症状を改善させるように振る舞う(作用する)」ということだと考えられる。

 

それでは「知能」について考えてみよう。

そもそも知能とは、実体を伴って存在するものではない。知的な活動ができる能力のことだ。

では知的であるとは、どういうことか。知的な振る舞いにはどのようなものがあるか。

 

知的な振る舞いには、いろいろなパターンがある。

自然言語での会話ができる。演算ができる。真似ができる。画像を見てそれが何であるか認識できる。具体的な事象から抽象的な概念を生成できる。抽象的な理論に基づき具体的な事象を分析できる。・・・

 

このように、知的であることは、一意には定まらない。

 

それでは、人工知能の知的さについて考えてみよう。

人工知能が人間より賢くなるか、という問いがしばしば話題になるが、まずその「賢い」ということを考える必要がある。つまり、賢さを比較するためには、知的な振る舞いの仕方を具体的に特定し、その振る舞い方ごとに人工知能と人間とを比較していくべきだろう。すると、ある振る舞い方にかけては人工知能が圧倒的に優れているということもあれば、その反対もある。

 

人工知能に知性があると言えるかどうか。この問いについては、「知性があると」をどのように定義するかによる。

知的な振る舞いができることだとすれば、分野によって人工知能は知性がある。

だが、人間と全く同様の知的な振る舞いをフルセットで持ち合わせるかと言えば、それは不可能だろう。なぜなら、人間が自らの知的振る舞いを全て認識し、フルセットがこれだと示すことが不可能だと思われるからだ。

 

人工知能は知的である。その知的さは、人間とは異なるものだ。同じことを人間よりはるかに高いレベルでできることもあれば、人間であれば当たり前にわかることが全く欠けていることもある。

 

したがって人間が人工知能を活用していくにあたっては、人工知能に人間の知能と同様の期待をしてはいけない。人工知能は専用機であると考えた方が良い。そして、汎用さを期待しない方が良い。なぜなら、汎用的になってきたときに、人間が人工知能の知的さに人間同様の知的さ・常識を無意識に期待してしまい、誤解・無理解・勘違いによる思わぬ事故が発生しかねないからだ。

 

人工知能の知的振る舞いを正しく理解すること。

これは、人工知能がある世界を生きる人間にとって、一般教養として必要なことである。

 

 

 

さて、ここで本書の主題に戻る。「人工知能に哲学を教えたら」ということだ。

ここで言う哲学には、学術的な哲学を指すのではなく、「倫理」「芸術」「幸福」「宗教」などを、人工知能がどのように理解し、評価し、考えることができるかという意味だ。

 

本書のなかではさまざまな思考実験がなされており、人間にとって人工知能がただの機械ではなくなる可能性を肯定的にとらえ、問題提起がなされている。

 

僕が思うには、人工知能は答えを返してはくれるが、問いを自ら持つことはないのではないか。もし問いを探すプログラムを組めば可能かもしれないが、それは「問い」が何かを教え、その「問いという答え」を判定して返すことになるのではないか。

 

哲学という観点からは、人工知能と人間の違いとしては、動詞としての「哲学する」ことができるか否かにあると思う。「哲学する」とは、自ら問いを見出し、考えるということだ。人工知能が行うのは、与えられた問いに対して、その人工知能のプログラムによって答えを見つけ出すということだ。

 

この違いは、人間と人工知能との関係について示唆に富むのではないか。倫理的な事柄について、「考える」のは人間の仕事だ。そしてその考え方をとった場合に、さまざまなケースに対してどのような答えになり得るかをシミュレーションできるのが人工知能だ。

したがって、人間が考える仮説を検証するために、人工知能にその考え方にしたがって大量に問題を与えて解を返させ、人間がその解の、すなわち考え方の妥当性を検証していくことができる。

 

人工知能は、人間の仮説検証能力を補完する。こう考えてみると、人工知能の一つの可能性が見えてくるように思う。

 

読書録『博報堂デザインのブランディング』(永井一史)

「ブランドに一番大切なものは、「思い」。

 ブランディングとは、「思い」を「カタチ」にすること。」

 

 ここで言う「思い」は、ビジョン、魂、理念、理想、意思といった意味を含む。そして「その企業や商品が社会に存在する理由」である。

 だが「思い」は見えない。だから「カタチ」を与え、人から見えるようにしていく。存在を与え、存続しやすくする。それが、ブランディングだと言える。

 ブランディングは短期的なものではなく、「将来までずっと残るもの、いわば未来の価値をデザインしていくこと」でもある。

 では、「カタチ」とは何かというと、シンボルや言葉やビジュアルデザインなどだ。それらを効果的に組み合わせて使いながら、主体と客体の間に共通認識、アイデンティティを作り上げていく。

 さらには、例えば企業の場合、社員が企業のアイデンティティに共感し、自分自身のアイデンティティとも不可分になり、より強固なアイデンティティになっていくと、その企業は方向性や価値観にブレがなくなる。ブランドが企業という土壌において育っていくイメージだ。

 

 

「ブランドのカタチを決めるのはデザイナーではなく、ブランド自身だ。その企業や商品が最も本来的で、最も望ましい“必然のカタチ”にたどり着くことをアテンドするぐらいのスタンスがちょうどいい。」

 

 ブランドは見出すものなのだ。コピーライターが言葉を創造するのではなく発見するのと相似の関係にある。コピーライティングもブランドの本質に迫るプロセスを通るのだから、当然かもしれない。メタに見れば、ブランディングもコピーライティングもデザインの一種であり、それは対象の本質を鮮やかに描き出し、見る人・読む人に伝える技術なのだろう。

 

 

 さて次に、カタチのデザインに入る前に不可欠なのが「思考のデザイン」だ。

 

ブランディングにおける「思考のデザイン」とは、双方向の関係性の中からブランドの「思い」を導き出し、価値として規定するまでの道筋のことだ。」

 

 デザインしたいことの本質を発見するには、ただ机上で頭をひねってアイデアを出してもダメだ。本質を探求するプロセスをデザインしておくのが良い。それが思考をデザインするということだ。

 まずはシステマティックに情報を集める「インプット」から始まる。ここでシステマティックとは、五つの視点「歴史」「機能」「文化」「社会」「関係」のそれぞれについて、資料やヒアリングや現場の観察・体験から発見していくことだ。

 次は、集めた立体的な情報に基づき、ブランドの本質を見つけ、固有価値として規定する「プランニング」だ。5つの視点で得た情報を基に、連立方程式を解くように、本質を探していく。こうして見出した本質を固有の価値と規定してはじめて、カタチを与える「思い」が定まることになる。

 思考のデザインを着実に実践し、豊かなインプットに基づくプランニングをすることによって、「必然のカタチ」を発見する準備ができたことになる。

 

 

「ブランドは「人」だと考えています。その人が、付き合いたいと思える人か、信頼できる魅力的な人かどうか。そして何がその人を形成しているかが大切になってくる。」

 

 この観点は、ブランディングにおいて規定した企業や商品の固有の価値と、それに与えたカタチを検証するのに役に立つ。自社のブランドを社員やお客様や株主様などステークホルダーにイメージしてもらい、このブランドが好きだと思えるかどうか。信頼できるか。何かが足りないとすれば、それは何か。

 

 

 ブランディングは、その成否が見えにくい。だが商品ブランドの場合、ブランドはPOSデータに反映されなくてはいけない。「日々、一円、一銭売っているリアリティを持って」いなければならない。企業ブランドなら、例えば時価総額だ。

 ブランドは資産だ。未来に続いていく。揺るぎない「思い」を発見し、カタチを与えることで、守り、再創造を続けていくべきものである。

 

読書録『名作コピーに学ぶ 読ませる文章の書き方』(鈴木康之)

「一行目はどうやって書けばいいんですか」

「二行目を読みたくなるように書くことだよ」

 

 自分で考えながらメモを作るならいいが、誰かに読んでほしいときは、出だしに悩んでしまう。そこに、おぼろげながら光となるのが、「二行目を読みたくなるように」というヒントだ。

 読みたくなる、というのが、何気ないようで実は秀逸だ。自然に読み手の気持ちに立たせてくれるからだ。本書の【はじめに】の書き出しにもあるとおり、「文章は書くものではない 読んでもらうものである」のだ。

 僕が仕事にしている広報においては、プレスリリースのタイトルがまさにこの「一行目」だ。どう書いたら記者が中身を読みたくなるか。アプローチはいろいろな角度がある。効果的なものを書けるまで、書いて、書いて、また違う角度から書いて、書き重ねることで見つけていく。

 

 

「「無からの創造」に対して、私はこのことを「有の発見」と呼んでいます。あるはずのよりよい表現を探し出す、それがコピーライティングでありデザインの仕事だと思っています。」

 

 コピーライティングは創造的な仕事だと思うが、そのプロセスは、創造よりも探求・発見の方が近いといことか。ならば、努力がものを言う。自分にだって、探求を粘り強く続けることで創造的になれる。

 

 

「情報の整理のつぎは、言葉の整理、文章の整理です。なくてもいい言葉を見つけなさい。」

 

 相手に読んでもらうためには、読みやすく、無駄なく、すんなりと頭に入ってくる文章でなければいけない。だから、書いたら読み直して、なくてもいい言葉を見つけ、書き直す。この繰り返しが文章をスマートにしていくのだ。

 

 

(本書の最後の【まとめ】を全文引用)

「文章は書くものではなく、読んでもらうものです。

 読む人が、知ってトクするように、読んで満足するように、書きなさい。

 文章は中身がだいじ。中身探しのために知らない話の世界を訪ねなさい。

 書き上手になろうと思わずに、聞き上手になりなさい。調べ上手になりなさい。

 人と違うことを考えなさい。想像の翼で自由に飛びなさい。

 あなた自身が感動した話、読む人がきっと喜ぶ土産話を聞かせなさい。

 中身にふさわしい書き方を考え出しなさい。気分を出して書きなさい。

 モノ、コト、オモイ、すべて読む人への説明だと思いなさい。

 親切に、丁寧に、読んでもらいたいという気持ちを込めて書きなさい。

 サービス精神たっぷりの、見た目にいい文章に仕立てなさい。

 書き直しなさい。文章を書くとは、書き直すことです。

 書き直していけば、どんどんいい文章になります。

 書き直せば、いい文章は、幕の内弁当のように仕上がって、読む人の前に出ます。」

 

 文章は、読む人のためのもの。だから、読む価値があるように、中身を充実させるために、たくさん調べ、聞き、感動し、絞り込む。伝えたいモノ、コト、オモイを、きちんと、丁寧に説明する。効果的に伝わるように、無駄がないように、読みたくなるように、何度も何度も書き直す。

 いい文章を書くのに近道はない。だが、着実な道はある。真面目に歩み続けることで、文章は良くなるのだ。

 

読書録『過剰な二人』(林真理子、見城徹)

 本の中で特に目についた付いた文を引用して、自分なりに咀嚼してみる。 

 

「いい仕事の条件は、自己顕示欲と自己嫌悪の間を、絶えずスウィングすること」

 

 時に自信を持ち、また時に自信を失う。そうやって浮き沈みしながら、人は内省するのだろう。その振れ幅を身を以て体験するうちに、人間がいかに弱く、また強くもなれるかを知る。 

 いい仕事は、人の心に響くものだと思う。そのためには心というものをよく観察して知っている必要がある。自己嫌悪するほどに自分の弱さを知ることで、他者にも優しくなれるのだと思う。 

 

 

「プロとアマチュアの違いとは、無駄の差」 

 

 この表現は初めて見たが、納得感がある。当然だが、プロの動き・仕事は洗練されている。それだけの練習・実践の経験の積み重ね、それも、絶えず検証・反省を繰り返し、血のにじむような努力の結果として、磨き抜かれて洗練されていくのだ。スポーツ選手や料理人などをイメージするとわかりやすい。 

 翻って自分の動きはどうか。仕事は多岐にわたるが、特に広報ではプロとしてやっていきたい。しかし、まだまだ無駄が多い。探り探り進めるため、やり直しもしょっちゅうだ。一瞬で効果的なアプローチを見抜けるようになるまで、実践と反省を繰り返していくほかない。 

 そしてそれは、プロになったとしても、絶えず続いていく。 

 

 

「結局、人の心をつかむには、努力しかない。それもただの努力ではない。自分を痛めるほどのものでないと、意味はない。この痛みが、人の心を動かすのだ。」 

 

 痛みが見えるから人の心が動くわけではないだろう。だが、人の心を動かすのは簡単ではないからこそ、痛みを伴うくらいに努力した仕事が必要なのだと考えられる。 

 自分の経験を振り返ってもそうだ。人に思いを伝え、共感してもらえるときというのは、自分の言葉に力が宿るようになるまで考え抜いたときだ。悩み、そこから逃げずに向き合いつづけ、突破口を見つけないといけない。 

 人の心を動かしたいと強く思い、たくさん悩み、痛み、苦しみ、逃げずに乗り越えるという経験を積み重ねることによって、人は成長するのだろう。 

 

 

「せっかく得た成功を捨て、新たな成功に向けて力を開発するのは、面倒だし、大変だ。しかし、それを怠った時、腐敗が始まり、ほどなく死の淵が見えてくる。 

 成功は通過点にすぎない。心底、そう思える人間こそ、美しい。」 

 

 僕は以前、大学入試に合格した後、長い間目標を見失った。一つの大きな目標を達成した後、次はもう一歩進んだストレッチゴールを設定して走り出せれば、もっと速く成長できただろう。だが、また新たな長い努力の道のりを行くのが億劫になり、少し休憩するつもりが再度エンジンをかけられずに、ダラダラと無為な時間を過ごしてしまった。 

 しょせん、僕も怠惰な人間なのだ。大きな目標に向けて地道に努力を続けるのは苦しいし、面倒くさい。 

 しかし今振り返ると、そのような自分の弱さ、怠惰さを知れたことも良かったのかもしれない。怠惰に負けてしまうと、あの頃のような、充足感のない日々を過ごしてしまい、激しい自己嫌悪に見舞われるのだ。 

 人が成長するには、忍耐が必要だ。長く地道な努力を積み重ねるしかない。目標を目指して走り続け、寄り道したくなる気持ちをぐっとこらえ続ける。それは窮屈だろう。だが、大きな目標に到達するには、当たり前に必要なことだろう。 

 このようにわかってはいても、実践するのは簡単ではない。そこで、やらざるを得ない仕組み、状況を作ってしまえば良い。どこかのコミュニティに所属したり、他者にアウトプットを約束したり、責任の伴う依頼を引き受けたり。 

 人間、性善なれど、性怠惰なり。怠惰に打ち克つ忍耐を強制的にでも備えてこそ、人は速く大きく成長できるのだ。 

 

 

経費に相応の責任を持て。

約1年ぶりの更新。

 

いま自分がメインで進めているプロジェクトは、会社にとってかなりの規模の金額のプロジェクトになる。売り物ではなく、買い物だ。

つまり、自分がそれだけの経費を使うのだ。逆に言えば、事業部門が必死に稼いだ利益をそのプロジェクトに投資することを、自分に任されているのだ。

経費をかけるということは、制作会社にそれだけ支払えばいいものができる、ということではない。それだけの経費をかけるに相応の労力をかける必要がある、ということだ。

投資金額に見合う努力、コミットメントをしなければならない。

その自覚を持って仕事に臨むべし。

 

ビジネスマンで組織せよ

従事する業務と対価としての給料が予め決まっているのがサラリーマンである。一方、組織には何が必要で、その中で自分が何を行うかを決定し、事業に対する貢献度に応じて報酬が決まるのがビジネスマンである。サラリーマンばかりの組織は時代の変化に適応できない。自ら変化を起こしていくビジネスマンによって組織は運営されなければならない。
 
サラリーマンは指示待ちである。リスクと責任から逃げる。創造力を欠く。変化を嫌う。
ビジネスマンは自ら意思決定する。リスクを取り、責任をもつ。したがって創造力を有する。変化を生み出すことができる。
 
事業は、人々のニーズを満たすことを、他者よりも優れた方法で提供することによって成立する。そしてその事実が、人々のニーズを次なるものへと動かしていく。したがって事業は人々に変化を作り出し、事業それ自体に明日は変化を要求する。
 
事業は絶えず変化しなければならない。組織は人なり。その人は、変化を生み出すことのできるビジネスマンでなければならない。
 
このことはサラリーマンの存在を否定しているのではない。決められたことをそのとおりに遂行する人間も組織には必要である。しかし、それはあくまで作業担当者の話である。組織の明日を担う者は、サラリーマンであってはならない。日本の組織で言えば、サラリーマンを管理職に就けてはならない。
 
日本社会では、年功序列・終身雇用制度の慣習の影響からか、サラリーマンとして成功していった者が優秀なサラリーマンのままに幹部になっていくことが多いように思われる。取締役であっても、経営者、企業家というより、サラリーマンのままである者も多いのではないか。それでは組織は硬直化する。空気が澱む。活力は生まれない。サラリーマンが上位の職位にいるのであれば、仮に優秀なビジネスマンが入ってきたとしても、彼の創造性が発揮されることはない。なぜなら、サラリーマン上司が、リスクを嫌い、責任を避け、変化を妨げるからだ。
 
僕はビジネスマンであろう。そして、ビジネスマンの仲間を求めよう。周囲のサラリーマンから疎まれるだろう。それを前提として仕事をしよう。組織がビジネスマンシップを拒絶するなら、その組織に未来はない。いち早く他を探そう。

会社における自分の使命とは

僕はいまの会社で、何を期待されて企画室という場に配置されたのか。
 
企画室という部署は、全社を見渡し、各事業部と連携しながら経営計画の立案と進捗管理を担う。また会社の対外的な窓口として、PR/IRといったコーポレートコミュニケーションも担当する。さらに全社的な社内イベントや新規取り組みがある場合の企画・運営部隊ともなる。観点はつねに「全社」である。
 
僕は新卒でこの部署に配属となった。正直なところ、かなりタフである。実務知識、スキル、社内事情、各事業内容、社内ネットワークなど、求められることが多い。新人を入れるよりも、スキル、社内事情、事業内容、社内ネットワークに一日の長がある人を異動させた方が効率的だと考えられなくもない。
それでも僕はここに新人で入ることになった。ということは、その部署において多少教育のためのコストがかかったとしても、ある程度の期間以降はかけたコストに見合うだけのパフォーマンスが期待されているということだろう。真実がどうかは知らないが、少なくとも自分ではそのつもりで会社に貢献できるように、パフォーマンスを高めていかなければならない。
 
それではそのパフォーマンスとは何か。あえてその部署における教育コストの高い新人を入れるからには、その人間ならではのパフォーマンスを期待するだろう。僕に期待されることは何だろうか。
僕なりの考えでは、慣例を打破していくことだ。新しい領域に踏み出すことだ。会社を良くするための「何か」を考え、作り出していくことだ。つねにオープンクエスチョンに向き合い、仮説を立て、実行し、評価・検証していくことだ。トップマネジメントが未来を描き、戦略を作ることを助けることだ。
 
したがって、トップマネジメントの世界を想像し、その立場で仕事をするためには何が必要かを考え、企画していくことが求められる。それが僕の役割だ。この世界の中で、この会社をどのような存在にしたいのか。どのように世界に貢献していくのか。そのために会社はどう変わっていかなければならないのか。それをどのように実行できるか。
 
決まった仕事をよりうまくできるようになることを目的としていてはいけない。それは当然として、より効率化してその他の時間を作り出し、いままでになかった、しかし不可欠な仕事を発見し、取り組んでいくことが必要である。
それが僕の使命だ、と思う。